この前、こんなニュースを読みました。
「被爆者の前で“核保有”を主張するのはどうなのか?」って話。
この記事を読んで、ふと、こんな疑問が浮かんできたんです。
「え、日本って“核”持ってないって聞いたけど…
原子力発電所って、そもそも“核”だよね?」
調べてみたら、やっぱり日本は「核兵器」は持ってない。
これはもう、非核三原則(持たず・作らず・持ち込ませず)でバッチリ。
でもね、
“核そのもの”=核物質(ウランとかプルトニウム)は、たくさん持っています。
どういうことかというと、
原発で使ってるウランとか
発電後に出る使用済み燃料(この中にはプルトニウム)とか
これらは全部「核物質」というもので、
ちゃんと保有してるんです、日本。
プルトニウムに至っては、
「再処理」という名のもとに分離されてて──
なんと、40トン以上。
核兵器にすると数千発分とも言われてるんだとか…
もちろん、全部「平和利用です!」ってことで、
IAEAの監視下にあるし、兵器化はしていません。
でも…「じゃあ、“核はない”って言っていいの?」
「“核兵器はない”けど、“核”はあるんじゃないの?」
って、思ってしまった訳です。
さらに言えば、
原子力発電所って、攻撃されたら大変なことになるんだよね。
放射能が漏れて、地域が住めなくなるようなリスクも。
にもかかわらず、「安全です」って前提で話が進んでるの、
なんか腑に落ちないな〜って。
戦争のことも、エネルギーのことも、
そして「日本が本当に何を持っているのか」ってことも、ニュースのひと言をきっかけに、
ちょっと自分で考えてみるのって、大事かもって思いました。
「核兵器は持っていない」──これは日本の立場。
「でも、“核”は確かにあるよね」──これは現実。
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その間にあるグレーゾーン。
僕はふと、その曖昧さに引っかかってしまいました。 -
そして今、思うんです。
そもそも「核兵器」と「核」って、どこで線を引くんだろう?
核に限らず、世に溢れているほとんどの事案が、
こういった境界線の上を歩いているような氣がしちゃいますね。
あなたはどう感じますか?


